こんにちは、人付き合い苦手です。
私は「意思を伝える・意思に沿って行動する」ことがうまくできなかった期間が長く、他人を振り回しがち、または振り回されがちでした。
「自分のことは自分で決めて良い」という考え方の人は、昔より増えてきているように感じますが、私はいまだにそれを常に実践できるというわけでもなく…。
でも自分の意見を伝えないのと伝えるのでは、その後の状況に違いが出るのも確かです。もちろん、意思を伝えてもうまく伝わらず誤解される事もあれば、意思を抑圧する環境もあるので、全部がそうだとは言えません。
ただ、最近の自分の場合は黙っているよりは伝える努力をしたほうが、多少マシな状況になることが多い気がしました。そこで今回は、意思を伝えられなくて他人の言いなりだった過去のこと、意思を伝えることで余計な苦痛が減らせたことについて考えてみようと思います。
では、よろしくお願いします。
意思表示をするのが苦手で他人の言いなりになっていた
私は家族も含め、他人の言いなりになっていた期間が長いです。決定を委ねているので、当然自分にとって不本意な目に遭いやすくなります。実際、人に決められた状況下で起こった苦痛は、通常のそれよりも強いものに感じました。
今はそこから脱却したつもりですが、自分が他者からコントロールされること、される可能性があることに強い恐怖感、抵抗感は消えません。もちろん自分がする側になるのも嫌です。この感覚はもう一生消えなそうだし、深い関係が苦手なのはもう仕方ないと思うようになりました。
意思表示が苦手だった理由
私が意思表示することが苦手だったのには、2つ理由があります。1つは交換条件を出されると思いこんでいたことでした。2つ目は、自分の持っているものに対する自信のなさからくるものだったと思っています。
交換条件を出されると思い込んでいた
意思表示が苦手だった理由として、大人になってから気付いたことがいくつかあります。そのうちの1つが「交換条件を出されると思いこんでいた」というのがありました。交換条件というのは私の過去の例だと、いじめから助けてもらうために良い成績を取り続ける、先生に都合の良い存在になるといったようなことです。
相手から直接そう命じられたわけではありません。しかし、相談の回数が多くなるに連れ、「なんか面倒くさそう」「私が呆れられてるみたい」と思ってしまうような態度を取られるようになりました。
そして呆れられると「あなたも悪いんじゃない?」になっていき、そのうち相談自体できなくなることもあったんです。簡単に学校から離れられる状況でも、加害者に反撃できる力もなかった私としては、どうにか見捨てられないよう、支援者に気に入られる振る舞いをするようになりました。
今考えると「そこまでしなくても」と思います。相手もこっちにそんなこと期待していなかったでしょう。ただ、やんわりとその先生の教科でいい成績を取る、検定試験、朝や放課後に行っている補講などを受けるよう言われたことはあります。
幸い不得意科目ではなかったので成績はどうにかなったけれど、本来希望者のみが参加する補講に、実質強制参加という形になってしまったのがしんどかったです。
通常の授業以外の課題も増えるし、朝早くから夕方17時過ぎまで学校にいなければならない、休みも潰れるとなると、人と会わなくていい時間は減ってしまいます。メンタルの回復時間がないんですよね。
おかげでとれた資格もあるし、成績は上がったし総合的に見たら良いことでした。でも、あの数年の頑張りは自分がやりたくてやったとは思えなくて、助けてもらったはずなのに「利用された」感覚もあり、いまだに複雑です。
受験が絡む時期だと「やりたくてやってたわけじゃないからつらかった」というのもよくある話なのかもしれません。
複雑な気持ちになるのは「弱い立場の人間は加害されやすい。その場から離れられない場合、加害から身を守るには別の強者に支配されるしかない。そして支配の内容はその強者次第」といった観念ができてしまったからだと思います。
サポートしてもらっていたのは確かだし、やんわり言われたことを私が真に受けただけです。(体力、精神ともにきつかったので、取引として半ば強制されたという風に感じてしまうのですが)
そもそも好き嫌いの感情を抑えて他人を支援し続けることはきついと思います。尽くしても感謝されるとは限らないし、今私が書いているように後々当人からネガティブなこととして扱われる可能性も高いです。
私には「被害者になると煙たがられる」という実体験がありました。それゆえ「これ以上不利にならないためには、加害者よりも強い立場の存在に助けてもらうしかない、でもそのためにはこちらも何か提供しないといけない」という発想になったのだと思います。
私はいじめに遭う前から人付き合いは苦手でしたし、狙われにくくなった後も、そこそこ話せる友人ができても、自分の本心は話せませんでした。ちょっとした好き嫌いでさえ言うのをためらっていたくらいです。
このように、数年前まで私を苦しめていた「意思を伝える、通すためには他人の許可がいる、代償として相手のいうことを聞かなくてはならない」という思い込みは、かなり厄介でした。
自分の知識に自信が持てなかった
他人に決定権を委ねてしまう理由は、私の場合、自分の持つ情報や価値観にいまいち自信が持てなかったからです。それは子どもの時だけに限らず、大人になってからもでした。
まず、服装や趣味では自分の好きなものが一応あるのに、それを選ぶことに抵抗がありました。特に美容院は、やってみたい髪型や髪色があるのに「あなたにそのスタイルやカラーは合わない」と言われると「詳しい人が言ってるんだし、その方がいいのかな」と思い、されるがままになっていました。
自分よりも情報を持っている人に何か言われると、自分の好みより、他人の意見を優先してしまっていたんです。言えなかった自分のせいでもあるのに、その後決まってモヤモヤして最終的には腹が立ってきます。
「おかしい」とか「間違っている」と否定されるのが怖くてその場意見を言えない、その癖後からわいてくるネガティブな感情を引きずるし、こんなことがこの先延々と繰り返されるかと思うとうんざりでした。
ここ数年で多少マシになってきたのは、1人の時間を多く取れるようになった、日記で感情を整理するようになったからです。冷静になると、どんな対策をすべきか考えるようになります。
私の場合は、他人に頼る前に自分である程度情報をチェックしておくことが有効でした。まったく情報を得ずに頼ると、全部相手の都合で決まってしまうこともあるので、自分が不利にならないためにも準備はしておいたほうがいいと思います。
自分の意思を蔑ろにしていたことの弊害
私は長い間自分の意志を蔑ろにしていたことで、様々な弊害が起こりました。つい最近まで引きずっていることもまだまだあります。
合わない環境に身を置きがちだった
自分の意思を蔑ろにしていた時期は、合う環境、合わない環境がわかりませんでした。今でこそものすごくこだわるようになりましたが、前はそういう概念すらなかったかもしれません。気付いたら合わない場所にいる、明らかに適正がない事ばかり選んでいる、さらに人間関係もしんどいなど散々でした。
気の進まない選択を拒否できなかった
昔、ある状況で出された選択肢がどれも「嫌だな」と思うものしかなかったのですが、断ることはもちろん、別の案を出す、相手を説得するということもできませんでした。その時は限られた選択肢の中からマシなものを探すのに精一杯だったんだと思います。
だけど、今考えたら「そこからは選ばない」と拒否することもできたのに、とちょっと悔しいです…。今と違って得られる情報が限られていたのも一因だと思います。
少しずつ自分で決めたい気持ちが強まっていった
他人に決定を任せてしまった時は「やらされている」感が強く、たとえ上手くいっても、満足感も達成感もありませんでした。前よりは改善したとはいえ、残念ながらいまだに大事な決定を人任せにしてしまう、決定権を人に奪われてしまうことが完全にないわけではありません。
状況にもよりますが、意思を通せるかどうかは持っている権力やお金、その時の環境次第な部分もあります。そして、どんなに人間嫌いでもそこそこしがらみはあるものです。そういったものが多い場所では、自分のことでも(特に病気の治療など体や居場所に関すること)自分の一存だけで決められないケースがあることも知りました。
それでも前と違うのは「今の自分は他人に依存しているかも、あるいはコントロール下にいるのかも」と自身に問いかけ「ちょっとやばいかもしれない」状態に早く気付けるようになった点です。
意思を伝えられない状況だった、もしくは誤解されたなどで、大きなトラブルに巻き込まれた話などを知れば知るほど「自分も油断できない」という気持ちが強まっていくし、要望はわかりやすく伝える、嫌なことははっきり拒絶するようにしていかないといけないと改めて思いました。
自分の意思で決めると納得できて続けられる
私は他人に自分のことを決められた、決めさせた時は、後々モヤモヤしたり、相手を恨んだりしてしまっていました。このことに気付いて自分で考えて決断するように心がけたところ、以前より前向きになれたと感じています。
例えば、働き方だとフリーランスという働き方は、いろいろな情報を調べて自分で考えて決めました。会社で皆と働くのが合わなくてつらかった頃、フリーランスになった人達の発信に励まされていたなあと思います。
しかし私の就いていた仕事は独立できるような業種でもなく、私自身に能力が乏しかったので、かなり厳しい状況でした。何か資格を取ろうにも、独立できる仕事の資格は高額で、準備もろくにできない状態でした。「このままでいるのは良くない」と分かっていても、下手をすると住む場所がなくなる可能性もあり、なかなか踏み出せなかったです。
いろいろな仕事に挑戦し続け、ようやく働き方に慣れてきたところですが、現在もそんなに成功しているとは言えません。何より、最近の社会の状況的にフリーランスとして働くことはますます困難になっていきそうです。
正直、数年前より個人に圧をかける空気が強くなってきたことに絶望感があるし、経済的には常に不安と隣り合わせです。一昨年から去年にかけては本当に沈んでいて(元々暗いのですが)、どうやってひっそり消えるか考えていたくらいです。でも、最近になって「これまでの人生で絶望していなかった時はほとんどないかも」と思い出しました。
会社員になるしか生きる方法がないと思っていた頃は、「ずっと苦手な人付き合いをしないといけない、うまくやらないと加害される環境に居続けないといけない、しかも病気になって倒れるまでやめられない、憎んでいる人間がどんどん増えていって、最後まで苦しむんだ」としか考えられなかったので、かなりメンタルが病んでいました。
今よりも絶望感でいっぱいだった時を乗り越えて、やっと自分の人生をどうしたいか考えられるようになったのだから、無駄にしたくないし、なんとかもうちょっと踏ん張ってみようと思っています。
人から決められたことだったら、不利な状況で頑張りたいとは思えないけれど、自分が心から「やってみたい、続けたい」と思うことなら、たとえ不利でもやる気はなくならないものなんだなと実感しました。
自分の意思を守るために必要なことが見えてきた
モヤモヤしていたことを書けてスッキリしたし、気持ちを整理したことで自分がこれからどんなことに気を付けるべきかも見えてきました。
私は人生に関わる決断をする時、焦っていたり自信がなかったりしていたことで、肝心なところで意見を言えなかったんだと思います。意思を伝えられないというのはあらゆる場面で不利になるということです。
自分から頼らなくても、他人に口出ししたい、コントロールしたい人が寄って来ることも多いので、あまり困っているように見せない工夫も必要かもしれません。
ただ気が強そう、裕福そうに見せるのは限界があるし、実態が伴っていないとかえって隙を付かれるというか、狙われやすい気がします。自分にできそうな対策としては、体調やメンタルが良くない時、忙しくて心に余裕がない時は慣れない場所に行かない、新しいことをするのは控えるくらいでした。
過去の私もでしたが、自信がない人は人気や権力がある人の言葉に振り回されたり、依存したりしやすいと思います。人付き合いが苦手というだけでも弱味を持つことになりますが、そこに他人への依存が加わったら、ますます幸福感は下がるでしょう。私は「自分を雑に扱う、虐げる人間に支配、利用された人生だった」とは思いたくないという気持ちが強くなってきています。
今後は少しでも自分の人生をマシなものと思えるように、他人への依存度を減らす、距離感を取って関わることを意識していくつもりです。それと同時に情報を鵜呑みにするのではなく、少しでも気になったことは自分でチェックしておく癖も付けていこうと思いました。
それでは、最後まで読んでくださってありがとうございました。